佐久長聖高等学校(長野)「長距離を走り続ける理由」【前編】
昨年、7度目の夏の甲子園出場を果たした佐久長聖。チームを束ねているのはPL学園の監督として3度甲子園に導いた藤原 弘介監督だ。PL学園時代とは部員数も気候的な環境も大きく異なる中、2012年の就任以来、夏は5年連続で県決勝に進出。うち3度、頂点に立っている。しかし、昨秋は県準々決勝で大敗。捲土重来を誓いながら、厳しい寒さの中で、“大地に根を張る”ための練習を続けている。藤原監督と選手のみなさんに、オフの取り組みや昨夏の甲子園出場で得たこと、そしてPL学園がどんな存在なのか、などについてお話をうかがいました。
氷点下のグラウンドで早朝から走り込む
練習風景(佐久長聖)
佐久長聖は長野県の東側に位置する佐久市にある。ここは豪雪地帯ではないものの、厳冬期ともなれば、最低気温がマイナス8度に達する日も少なくない。吹く風は肌を突き刺し、日が沈むとたちまち地面の冷たさが足先を通して伝わってくる。
だが、佐久長聖野球部の朝は早い。全体練習が始まるのは、吐く息も凍りそうな午前6時半。グラウンドはカチカチな状態だ。選手たちを待っているのは400m×12本のランニング。100人を超す部員たちは凍った地面に、次々と靴跡を刻み込む。転倒しないよう注意するものの、走る前に完全に体を目覚めさせておかなければ、その可能性は高まる。チーム代表(取材時時点では主将代行)の桜井 貴一(2年)は「正直、冬の練習の中で一番辛いのは、朝のランニングです」とナインの気持ちを代弁するように話す。
もっとも、佐久長聖のオフ期のランメニューはこれだけにとどまらない。平日練習では授業後に50mを9秒で走り21秒で戻って来るインターバル走を40本。さらに練習の締め括りにはグラウンド5週のタイム走を。藤原 弘介監督によると「距離にして日に10㎞は走っている」という。
「ロング走はプレーに直結しない、という考え方もありますが、野球ではカバーの際の切り返しが多いので、長い距離を走ることも必要かと。それとロング走をするのは、もう2つ理由があります。1つは5月6月に追い込んだ練習ができるだけの体力をつけるため。もう1つは大学野球に適応するためです。引退した3年生は47人いたのですが、そのうち約4分の3が大学で野球を続けます。高校の時に単調な走り込みをしっかりやっておかないと、大学のランメニューについていけませんからね」
昨秋の不甲斐ない敗戦が心に火をつける
バッティング練習(佐久長聖)
佐久長聖の今オフの大きなテーマは、この走り込みの他に2つ。藤原監督は「キャッチボールと振り込みですね。失点を防ぐためにはエラーをなくさなければならないので、キャッチボールを正確にできるようにして、エラーの半分を占める送球ミスをなくす。振り込みは、昨秋の大会で打てなかったのもあり、室内のティー打撃などで数を打つようにしています。投手は室内でネットピッチング。1日300球ほど毎日、5mほどの距離から全力で投げ込んでいます」と説明してくれた。
昨秋は県準々決勝で長野商相手に3対12と、佐久長聖にとっては屈辱的な大敗となった。それだけに、特に中心選手の2年生は今オフにかける思いが強い。梅野 遼太郎と関 颯太は「個人的な課題もありますが、まずチームとしての力をつけたいです」と言葉を同じにする。「今やらなければいつやる、という意識になっています」と言うのは、1年時は「とにかく寒くてまるで体が動かなかった」と明かす松尾 直樹だ。桜井は「ここは(中学まで過ごした)長野・飯田よりも寒さが厳しく、1年生の冬はもっぱら寒さとの戦い。練習休みが待ち遠しかったのですが、今は休みの日も自主的に練習をしています」と語る。
佐久の寒さを溶かすような熱い気持ちで冬の練習に取り組んでいるのは、中心選手だけではない。早朝の室内練習場での自主練習は、全体で行うランニングの1時間前から行われているが、そこにはいつも2年生全員の姿があるという。桜井は「現段階では個人の能力は、旧チームの3年生に劣るかもしれませんが、早朝の自主練習の参加率は僕らの方が高いです」と胸を張る。
佐久長聖のアルプス席で奏でられたPLの応援曲
昨夏の甲子園。佐久長聖は約4万3千人の大観衆が見守った鳴門高との開幕試合に登場。佐久長聖のチャンスの場面では、昨夏限りで休部となり、さらに3月30日、脱退届も出したPL学園の応援曲「ウィング」と「ビクトリー」が超満員の球場に響き渡った。甲子園ではお馴染みの応援曲ではあるが、なぜ佐久長聖のアルプス応援席から?高校野球ファンの中には不思議に感じた人もいたかもしれない。それ以上に不思議な気持ちで聞いていたのが藤原監督だ。PL学園の選手として1度、監督として3度甲子園に出場し、前田 健太投手(広島-現ドジャーズ)を擁した06年春はベスト4に導いた指揮官はこう振り返る。
「実は応援団長を務めた3年生の野球部員が私に気を遣ってくれたようで。先生かけていいですか?と。県予選の時から演奏してくれましてね。はじめはちょっと気恥ずかしさもあったのですが、嬉しかったですね。予選の時は、PLの応援曲を演奏してもらったイニングは不思議に得点が入りまして。それにしてもまさか母校の応援曲をバックに[stadium]甲子園[/stadium]で試合ができるとは、思ってもみませんでした」
PL学園が最後に甲子園に出場した時(09年夏)、小学4年生だった2年生の選手にとっても、PL学園は大きい存在だ。全盛期の記憶はなくとも、数々の有名選手を輩出し、甲子園を春夏合わせて7度制した“超名門”として認識している。松尾のようにそんな“超名門”を指導していた藤原監督のもとでやりたいと、佐久長聖の門をくぐった選手も多い。ちなみに関は、兄がPL学園でプレーしていた。藤原監督の教え子である。アルプス席で声援を送っていた梅野は「PLの応援曲が流れた時は、少しだけあのPLとの距離が近くなった気がしました」と顔を輝かす。
後編では、PL学園出身の藤原監督がPL学園で学んだこと、さらに2年連続の夏の甲子園出場を目指す選手たちに意気込みを伺いました。
(取材・文=上原 伸一)
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