河島徳基 「何事も一生懸命に」
第4回 河島 徳基 氏 「何事も一生懸命に」2009年08月11日
「高校を卒業したら野球はどうしよう?」
大学の野球部で野球続けること、サークルで野球を続けること、もしくは将来仕事として野球に関わることなど、野球との関わり方は様々。そこで今回は、米国でのスポーツトレーナー、阪神タイガースの通訳・営業と、生涯を通じて野球と関わってきた河島さんに体験談をお聞きしてきました。将来の進路決定のヒントになれば幸いです。
高校野球情報.com スタッフ一同
何事も一生懸命に
野球大好き少年として、小学校から野球を続けてきた河島さん。
野球ビジネスとのかかわりは、練習中のふとした疑問から始まった。
「高校卒業後、今後野球に携わりたいという気持ちは、正直、なかったです。ただ、二点疑問をもっていたんです。一つは肩をけがした時に病院に行って「一週間練習休んでいたら治りますよ」と言われて帰ることが多くて、それはないだろと。もっとリハビリとか、もっとこんなトレーニングをしたらいいよとかアドバイスをしてほしいと思うことがありました。
それともう一点はみなさんご存じのとおり、冬の練習はすごく走りこむキツイ練習がありますよね。僕は走るの嫌いじゃないんですが、でもそんな冬練に果たして意味があるのかと強く思ったんですね。どうせ同じ時間苦しい思いをするんならただの根性練ではなくて、うまくなる練習とか勝てるための練習ができるんじゃないかと思ってたんですよ。」
そんな疑問を抱えながら大学へ。大学では経済学部、部活は陸上部で長距離を走る。そして、インストラクターアルバイトの傍らで当時はまだ聞きなれない「スポーツトレーナー」という職業に出会い、徐々に惹かれていく。
「実はアメリカの方が、スポーツ科学がずっと進んでいるという話を聞くようになって、あぁそこで勉強したいなって気持ちがあったのと、それから、当時立花龍司(注1)さんという方がいて、『スポーツトレーナー』という職業があるのかと知って興味を持ったんです。そして就職活動の時、どうしようかと考えた時、就職活動でどこかの業界に決まったらそのままズルズルいってしまうなぁと感じて、じゃあこの段階で決めようと。スポーツ科学を学ぶために渡米するのか、就職するのか。」
(注1) 立花龍司 さん:大商大-近鉄-ロッテ-メッツ-ロッテ-楽天-ロッテ / 大学野球でピッチャーを務めるも、肩の故障のため選手生活を断念。1989年近鉄バファローズにコンディショニングコーチとして入団。その後、アメリカでメジャー式の総括的なトレーニング理論を学び、千葉ロッテ・NYメッツ・楽天コンディショニングディレクターを経て、06年千葉ロッテマリーンズコンディショニングディレクターに就任。TV・執筆など多方面でも活躍中。
その後、思い切ってアメリカの大学院へ進学することに。言語の違いだけでなく、他学科出身であることから、想像以上の苦労を目のあたりにする。
「僕の場合は大学が経済学部だったので、大学院は生理学とか解剖学の授業を、最低でも大学生レベルでBをとりなさい、という条件付の仮入学でした。だからまずは一年生と一緒に授業を受けていました。これはきつかったですね(苦笑)。最低でもB以上をとらなくちゃいけなくて。向こうのBって88点なんですよ?アメリカで受けた最初のテストで撃沈しまして・・・。僕はアメリカ行って『俺はトレーナーになる』なんて豪語していたんで、「まさかここで終わるか?!」なんてまずいなぁと思って。その日にめちゃくちゃ落ち込んで帰ってきたら、手紙が一通入っていたんですよ。大学の時一緒に陸上で走っていたやつからの手紙で。内容はあまり覚えていないんですが、もう激しく泣いてしまいまして。俺はこんなところで落ち込んでいる場合じゃないと。」
そんな必死の思いで勉強して大学院を卒業。2年間サンフランシスコのアスリート専門トレーニング施設で働き、この米国での経験を日本で活かしたいという思いと共に帰国する。日本でパーソナルトレーナーとして働いていたところ、ある日、一本の電話を手にする。
「たまたま知人がタイガースで通訳を募集している新聞記事を見つけたんですよ。それで僕に受けろって言ってきたんです。僕は「いやー通訳なんてやりたくないし、受かるわけがないけど、受けますわ。」って。僕は高校まで野球やってたので、プロ野球に興味がありましたし、プロ野球がどんなトレーニングをやっているか見てみたいというのもあって、まぁ受かるわけがないだろと受けてみたら、僕、落ちたんですよ(笑)。」
【通訳時代】2005年阪神優勝のさいのビールかけにて
ところがさらなる偶然が起こることに。
「プロ野球のキャンプも始まっている2月の13日にタイガースから電話がかかってきて、何事かと思ったら「今すぐ来てくれ。」はぁ!?と思ったら、自分が受けた時の面接で受かった方が辞退したので僕に来てほしいと電話がかかってきたんですよ。2日後の15日に羽田空港からキャンプ地の高知に飛んで行って、窓の所に高知空港が見えた時「俺は一体何をやっているんだ?!」と思ってましたね。
ところがタイガースの通訳になった所、「あ、もしかしてトレーナーじゃなくてもいいかな」って思ったんです。めちゃくちゃ通訳の仕事が面白くて!なんでかというと通訳だって選手を手助けする仕事じゃないですか。
例えば、日本の選手でも結構メジャーに行っている時代でしたから、日本人選手に対してメジャーとの間に立 てる、通訳担当の選手だけじゃなくて、周りの選手にも影響を及ぼすことができる、これは面白いなぁと。」
「18歳の自分って、通訳になろうなんて夢にも思わなかったし、なり方もわからなかったし、ただただその時立花さんへの憧れがあっただけなのかもしれません。だからこそ、その時、『もしかしたら本当にやりたかったことってトレーナーではなかった』と感じたんです。「トレーナーをやりたい!」という固定概念をいったん外すことでいろんなイメージが湧いたんですよ。」
シーズンオフとともに、通訳という仕事から転機が訪れる。今度は球団の「営業」という新天地。野球ビジネスのまた別の世界を知ることになる。
「これもまためちゃくちゃ面白いなって思ったんです。単純に、楽しかったんです。営業になった2003年はタイガースが優勝の時で、そりゃもうすごいことになっているんですよ!電話も鳴りっぱなしだし、テンションもぐっと上がりっぱなりですし、グッズも飛ぶように売れてましたし、そして甲子園も満員だし、もうすごい状態だったんです。僕はファンサービスの部署でして、マスコットのトラッキーラッキーの管理とか球場外のイベント運営とか、僕と先輩の二人だけだったんで、本当に自由にやらせてもらえたので、すごい楽しかったですね。」
「通訳の時は部外者と会う機会というのがほとんどなかったんですね。いざ営業だと、広告代理店の人とか、始球式にはタレントさんとか、いろんな人と出会って関わることというのをやっていたんで、それはすごい新鮮でした。」
そして、現場と運営両方を見てきた経験から、もっと野球ビジネスに正しい資質をもった人材を入れたいという気持ちのもと、心機一転、起業に至る。さまざまな面から野球ビジネスに関わってきたこれまでを次のように振り返る。
「まず一つ目標があったとしたらそれに向かって一生懸命やることは大事で、その後というのは、一生懸命やったことによってもたらされるもので出来ていくんです。たとえ結果として目標とは違った方向に行ったとしても、それはそれで受け入れて、目の前にあるものを一生懸命やって、またそれによってもたらされるものを逃さずに、乗っかっていくという感じですね。僕の場合は。そもそも、最初に通訳に決まった方が辞退しなければ?13日に電話かかって無理なんて言ったら?営業行けって言われてプライド傷ついて行かなかったら?また全然違う道なんです。その先はよくわからないですが、変わってくということですね。」
「でも不思議なもんで、僕は弱小チームにいたんですけど、中学の時から選手として甲子園に行きたいなんて思っていたんですよ。でも、十数年経って、それとは全然違う形で甲子園に足を踏み入れていたんです。思いがきっと叶うなんて話ではないですが、結局はプロ野球にかかわりたいと思っていたら、自分が思っているものと違う形でも叶っているんですよ。引き寄せられるものがあるんです。だからずっと思い続けるってことが大事なんだと思いますよ。」
球児にメッセージ
「やりたいことは一心に思い続けるという話とちょっと矛盾しているんですが、若いうちはいろんなこと、やった方がいいと思います。
日本の言葉で使い方が難しいなと思っている言葉が「道」って言葉で、ひとつのことをやり遂げる意味を持つ言葉がありますよね。剣道とか、柔道とかそれこそ野球道とか。それは悪いことではないし、そんな真っ直ぐな気持ちがイチローのような名選手を生み出したわけですし。
でも若いうちはなんでも一生懸命でいいと思うんですよ。勉強も遊びも何でも。それぞれの相乗効果といいますか、それぞれからいい影響を受けるので、ぜひ野球以外にも果敢にチャレンジしてほしいですね。」