決勝進出校が、都合8度という山口県のしぶとさ
私学勢力の台頭による勢力構図の変化
2017年夏と翌春に連続出場を果たした下関国際
2017年夏と翌春に連続出場を果たした下関国際、17年春と15年春の宇部鴻城16年夏の高川学園など、近年はフレッシュな校名が相次いで出場を果たしている山口県勢である。
もっとも、高川学園はかつては多々良学園という校名で、84年春に一度だけ甲子園出場を果たしている。校名変更は06年で、そこから再度強化されていくこととなった。また、11年夏には柳井学園も初出場。翌年春には、早鞆が春初出場を果たしている。
いずれにしてもこうした私学勢の台頭は、明らかに勢力構図に変化が生じてきているともいえようか。その最たる理由としては、全国的な傾向に準じて、かつては下関商や宇部商、岩国などの公立勢が健闘していた山口県内でも私学勢力が台頭してきたということの表れであろうか。
山口県勢の甲子園での決勝進出回数は8回もあり県勢の通算勝利数も108勝で107勝の岡山県よりも1つ上で20位となっている(2018年5月現在)。昭和30年代には下関商が全盛期となっていて、その時代に多く稼いでいたということもあったであろうか。
近年は、山口県勢は甲子園ではそれほど買ってはいないのではないかという印象があるので、都道府県勝ち数ランキングでは半分よりも上にランクインしていることにも、少し驚かされる。
歴史を見てみると、優勝は1958(昭和33)年の柳井と1963(昭和38)年の下関商なのだが1964(昭和39)年夏の早鞆、72年夏の柳井、74年夏の防府商、85年夏の宇部商などが準優勝している。
宇部商以外は決して常連校という印象ではないだけに、改めて意外な印象を強めているのだろう。しかも共通して言えることは、いずれも必ずしも下馬評が高いという存在ではなかったのにもかかわらず、いつの間にかスルスルと勝ち上がってきて決勝まできてしまって気がついたら準優勝しているというケースだったということだ。
しかも、それぞれが各都市から出てきているというのも特徴的である。県大会の段階から頭抜けてはいないのに、ねちねちと勝ち上がっていく執念と言っていいだろう。そのあたりは、その昔の長州藩の誇りが意外に力を発揮しているということになるのだろうか。
90年代以降の歴史と今後の行方
かつてダイエーなどで活躍をした大越基監督を招いて12年春に復活して出場を果たした早鞆
ところで、県内では突出した力を示した63、64年頃の下関商だったが、その後しばらく甲子園から遠ざかる。それが、79年春、81年夏に復活し95年には久々に甲子園で勝利した。
15年夏にも久しぶりに姿を現したが、ユニホームは当時と同様のデザインで左胸に大きく角ばった感じの「S」一文字だけというものである。当時を知るオールドファンたちはその懐かしさとともに池永正明という稀有の制球力を持った投手の名前を思い出し、時代を語ることができた。
早鞆は準優勝の2年後に再び出場し、その翌年も顔を出すものの以降パタリと消えてしまった。もう、野球部は強化されていないのだろうかと思っていたら、01年の春季中国大会で優勝している。
さらにかつて仙台育英で準優勝を経験し、ダイエーなどで活躍をした大越基監督を招いて12年春に復活して出場を果たした。こちらも左胸にワンポイント「H」マークである。
今は亡き津田恒美(協和醗酵→広島)のいた南陽工は09年春に復活の出場を果たすと翌年夏、16年春など、宇部商とともに印象は強い。また03年夏には春優勝の広陵を下して8強入りした岩国も渋く存在をアピールしている。
岩国に並ぶ進学校の徳山や、新しい力としては下松市にある華陵も08年春に21世紀枠代表として出場し、09年夏は自力で出場するなど力を示している。
とはいえ、基本的にはやはり宇部商が中心となって今後も進んでいくであろう。玉国光男監督がいつも勝ちにいけるチームを作っており、とくに甲子園で初戦負けがほとんどないということは評価されていいだろう。
98年の延長15回、豊田大谷との試合の藤田修平投手の痛恨のサヨナラボークも印象深い。01年、02年夏と立て続けに甲子園に姿を見せており、05年には春夏連続出場。
31年間監督を務めた玉国監督が勇退後を引き継いだ中富力監督となって07年春にも出場。以降、やや南陽工などに押され気味のところもあるが、県内ではリーダー格といっていいだろう。
そこへ、冒頭に記したように、新しい私学勢が台頭してきてするといった構図となっている。
(文:手束 仁)