創志学園の登場で、関西と倉敷商らと新たな勢力構図
古豪の倉敷工を中心に岡山のレベルがUP!
古豪の倉敷工
隣県の広島県が中等野球時代から実績を挙げていたのに対して、岡山県勢は戦前に甲子園出場したのは僅かに岡山一中(現岡山朝日)の1回だけである。しかも、戦後になってもしばらくの間は関西や倉敷工、岡山東商がポツンとある程度だ。
当時の夏の地区割は、岡山、広島、山口の中から山陽代表1校という時代だったのである。だから、県で勝ち上がっても広島県と山口県の壁を破ることができなかったのである。
岡山県は広島と兵庫に挟まれて、県そのものとしてももう一つ強くアピールする部分が少ないという面も確かにある。気候もある程度安定していて温暖で雨が少ない。人口も多くもなく少なくもない。歴史的には、第二次世界大戦でも広島の原爆や神戸大空襲というのを身近に見たり聞いたりはしているものの、自分たちは現実には辛うじて逃れられている。戦前から戦後の野球実績が、温暖な気候の割に目立たないのは、野球のような勝負事に対しても、決死の思いで必勝を期すというイメージもそれほどはないのかもしれない。それが、結果として野球では広島県、山口県を越せないことになったのではないだろうか。
そんな岡山県で次第に全国に知られる存在となったのは倉敷工だった。その倉敷工は1961(昭和36)年の夏、延長戦で報徳学園を相手に11回表に6点取りながら、その裏6点を取り返されて、さらに12回に1点を失ってサヨナラ負けを喫することによって知られることとなった。甲子園の歴史に残る大逆転を食らった当事者として、全国的に有名になってしまったのである。
それでも倉敷工を中心に岡山のレベルは上がっていったことは確かだ。倉敷工のライバルとして出てきたのは岡山東商だった。全国的な実績としてはむしろ倉敷工よりも強烈に印象づけた。それは、3度目の出場となった65年春に、その後に大洋ホエールズのエースとして18年間のプロ通算210勝196敗、最多勝2回、防御率1位・沢村賞それぞれ各1回獲得する平松政次投手を擁して出場した時だった。1回戦のコザ(沖縄)との試合を除くと、いずれも投手戦を制して全試合シャットアウトで決勝進出。この年、対照的に強打のチームで進出してきた、藤田平(阪神)のいる市和歌山商(現市和歌山)と対戦。4回に失点し、連続無失点は39回でストップしてしまったが、試合は投手戦となり延長13回、岡山東商がサヨナラ勝ちした。
もちろん、岡山県としても初めての優勝となった。平松投手はその後、社会人野球に進んで都市対抗野球でも日本石油(横浜市)の優勝投手にもなる。プロ入りして多くの打者をのけ反らせたカミソリシュートは当時からの武器だった。
名だたる選手を輩出する倉敷商
数々のプロ野球選手を輩出している倉敷商
戦力地図としては、この優勝で岡山東商が一つリードした形になったようだが、他チームがそれに追随していたとは言いがたいところもある。たまに、玉島商や倉敷工が上位に残っている程度だった。また、県内では一番古い歴史を誇る関西も時に甲子園に顔を出しながら、全国に存在を示していた。スケールの大きさでは、岡山東商や倉敷工を上回るチームカラーが特徴である。
これに、旧岡山市立商として岡山東商に負けない歴史を誇る岡山南も川相昌弘投手(読売→中日)などで甲子園に出場してきた。県内でも、クリーム色の東商と水色のユニホームの南とがライバル的な存在になってきた。逆に、倉敷工は長い間チームを率いて倉敷工のカラーを定着させたベテラン小沢馨監督が病に倒れ、やや後退気味になってしまった。岡山県の高校球界のパイオニア的な存在でもあった小沢監督の功績はここでは語り尽くせないくらいのものがある。倉敷勢としては、星野仙一(明治大→中日)、松岡弘(ヤクルト)らを輩出した倉敷商も、当時から忘れてはいけない存在だ。
新勢力として台頭してきたのが岡山理科大付だった。99年には強打のチームで気がついたら決勝戦まで進んでいた。決勝戦は桐生第一に大差で負けたものの、準決勝で智弁和歌山に9回逆転サヨナラ勝ちした試合は見事だった。結局、これが岡山県としては2度目の決勝進出ということになった。
新勢力としておかやま山陽が台頭
新勢力のおかやま山陽
そして、2000年以降になって、関西が復活を示しはじめる。また公立勢としては、全県一学区の岡山城東や体育科のある玉野光南などとともに出場を重ねていく。関西は11年夏にはベストに4に進出している。岡山城東も96年春に帝京を下すなどしてベスト4に進んで気を吐いた。
また、新しいところでは女子校のベル学園を母体としてスタートしていた学校が共学校となり校名変更した創志学園が新しい息吹を発信している。11年春には創部1年わずかで新2年生のみで出場したのは記憶に新しいところだ。16年春からは3大会連続出場を果たしている。歴史と伝統を誇る関西と新鋭の創志学園というコントラストも面白い。加えて、金山学園から校名変更した岡山学芸館も01年春に初出場を果たして新勢力として注目されている。15年夏にも出場を果たした。
そして17年夏と翌18年春には新勢力としておかやま山陽が台頭。堤尚彦監督は青年海外協力隊でジンバブエやガーナなどでの指導経験もあるユニークな存在だ。
公立普通科進学校の状況はどうかというと、戦前に1回だけの甲子園を記録している岡山朝日とライバル県二中と県一女が一緒になってできた岡山操山は中堅校の位置づけとなっている。
(文:手束 仁)