天理と智弁学園の2強構図は変わらぬ宗教校のライバル対決【奈良・2018年度版】
奈良の中心は天理、智弁学園の強烈な2校
甲子園では通算75勝49敗で優勝3回という見事な成績を残している天理
あまりにも強烈な2校があってその壁は極めて厚いというのは、奈良県の他の学校の偽らざるところであろう。その2校とは、ほとんどの高校野球ファンが周知のように天理と智弁学園である。色でいえば紫と朱ということでもわかりやすい。今年はそのどちらが強いのか、また、どちらを応援するのかということである。
奈良県は近畿圏の中では近鉄文化圏になる。生駒市などを含めて、ほとんど大阪のベッドタウン化しているということもあって、生徒が大阪の学校へ流れやすい。だから、意識としては大阪という部分もあり、このあたりは首都圏における埼玉の位置づけによく似ている。その一方で、大阪の有望選手が甲子園に行くためにどこの学校へ行くと可能性が高いのかという点では、奈良の学校のほうが甲子園の夢を実現しやすいという側面もある。ことに、天理も智弁学園も宗教色の強い学校であり、その意味では広く県外生を受け入れやすい環境でもあると言えよう。
これが奈良県の高校野球構図が形成されていった背景でもあろうか。
歴史的には、天理は打撃力、智弁学園は投手力という印象が強い。県内でのこの対決となるとどちらの力が上回ったかということがそのまま代表に繋がっていくということでもある。この構図は1970年代頃から、営々と継続されてきている。確実にこの両校の一騎打ちという図式を呈していた時代が長く、会場の橿原(佐藤製薬)球場も二分されるという状態が続いていた。ある人はそれを“奈良の宗教代理戦争”とも称していた。そして、それはそのまま天理市と五條市の都市対抗でもある。
甲子園での実績ということでは天理の方が勝っている。甲子園では通算75勝49敗で優勝3回というのは見事だ。奈良県のトータル136勝のうちの5割5分を占めているのはさすがだ。近年では、丸2年間遠ざかっていたが15年には復活して春夏連続出場。17年夏にも出場している。09年春から11年夏までは5季連続出場を果たすなど圧倒的だ。
これに対して智弁学園は甲子園通算35勝29敗で、16年春には悲願の全国制覇を成し遂げた。夏も出場したが2回戦で鳴門に敗れた。77年春と95年夏にはベスト4に進出している。実績的にはやや天理に後れを取っているものの、それでもインパクトがあるのは、胸に強烈な朱色の文字で書かれた「智辯」のユニホームの印象もあるだろう。ちなみに天理は紫でやはり漢字で「天理」の二文字の表記である。
いずれにしても、この両校で奈良県の甲子園勝利数の8割近くを占めているのだから、圧倒的勢力であることに変わりはない。
この両校の対決構図は、今後も続いていくであろうことは間違いない。
2強の壁は厚いが、他の勢力も健闘を示す
「智辯」のユニホームのインパクトは強く、16年春には悲願の全国制覇を成し遂げた
ところで、古都と言うと京都のイメージが強いのだが、日本史でいえばその京都よりも80年以上も早く都になっていたのが奈良である。奈良という街は8世紀初頭に中国(唐)の長安をモデルに作った街といわれている。街並みが碁盤状になっていて道路も東西と南北に規則正しく走っており、整然とした印象がある。それだからということもあるのだろうか、奈良は初めて訪れた人でも妙に落ち着いた安心感がある。
だからというわけではないだろうが、高校野球の勢力構図も落ち着いてしまっているのだろうかとさえ思ってしまう。
そんな奈良県だが、天理と智弁学園以外の勢力としては、歴史的には筆頭格として郡山を忘れてはいけない。県内では奈良、畝傍などに並ぶ進学校の公立高校として地元での評判も高い。前身は明治初頭に設立された教員養成所で、郡山中として1901(明治34)年に創立。1933(昭和8)年夏に初出場という実績がある。甲子園には、00年夏を最後に2強の壁に跳ね返され続けているが、通算12勝12敗、春夏6回ずつ出場という実績は公立進学校としては立派である。そんな郡山を応援し続けている「郡高ファン」も多く存在している。
80年以降で天理か智弁学園のどちらも甲子園に出場できなかった年は00年と13年の2度だけである。00年は春が橿原で夏が前記の郡山。13年は春に大和広陵が2度目、夏は桜井が初出場を果たしている。大和広陵は15年夏も奈良大会決勝まで進出しており、近年では2強を最も脅かす存在ともいえようか。
また、15年春に天理とともに選ばれ初出場を果たした奈良大付も健闘している。正強時代からの悲願達成となった。初戦敗退だったが、結果的には優勝する敦賀気比に0対3と食い下がったことは、学校としても大きな一歩だった。15年秋季大会も智弁学園に続く準優勝で近畿大会出場を果たしている。
他には94年春に出場し17年春にも出場した高田商、99年春に出場している高田の大和高田市内勢や平城、関西中央という新勢力も台頭してきている。高田商は17年秋の県大会も準優勝して近畿地区大会に進出したが、初戦で近大附に敗れた。
こうして他の勢力も健闘は示しているものの、2強の壁は極めて厚いというのが現実である。
(文:手束 仁)