一時代を築いた銚子商と習志野から、県内3強が形成されていった千葉の勢力の変化(千葉)
30校前後が横一線に並ぶ混戦状態から木更津総合、専大松戸が抜け出てきた。
一時代を築いた習志野と銚子商
90年代か後半から20年ほどの間、県内の高校野球は突出した存在がなく、毎年のように20~30校がほぼ横一線になりながら競い合っていくという構図が続いていた。よく言えば群雄割拠の混戦状態なのだが、悪く言えば団栗の背比べで、どこも抜けきれないでいたということになる。
そんな状況下で、ここ2~3年は木更津総合と専大松戸、東海大市原望洋の3校が抜けてきたという印象だ。
元々、東京のベッドタウンとしての位置づけと、素朴な田舎という要素が混在しているのが千葉県だ。それは、多分に交通機関や地形的なものにも影響されるのだろうが、いずれにしても、千葉市を拠点として、その東京寄りが前者であり、千葉市を越えた瞬間から後者の地域ということになる。
そのギャップと落差が千葉県の特徴ということがいえるかもしれない。そして、千葉市までの人は東京都内への通勤の人も多いが、千葉市を越えると比較的地場産業の従事者で自営や農水産業の仕事が多くなってくる。これもまた、千葉県の顕著な傾向である。
代表的な存在だった習志野と銚子商
その両地域の代表的な存在が甲子園で連続的に優勝を果たしたことがある。日本の高度成長も一段落して、日本人の文化意識も多くの人々が中流家庭になっていこうとしていた時代の70年代半ばのことである。
県内の歴史を見てみると、そうした時代構図の中で銚子商と習志野という両県の特徴ある2地区の代表的な存在が1時代を築いていた。
千葉市より特急でさらに総武本線を1時間以上も乗って行くと銚子市がある。その市民の誇りが銚子商だった時代があった。甲子園が江川 卓で沸いた翌年の1974(昭和49)年に土屋 正勝投手(中日→ロッテ)で悲願の全国優勝を果たした頃である。土屋は前年に、2年生ながら延長戦で雨の中、甲子園史上最高の投手と言われた江川に投げ勝って注目された。翌年の銚子商の試合ぶりは1回戦から決勝戦までの5試合を通して失点はわずか1というほぼ完璧に近い内容のものだった。
銚子商が優勝を果たした翌年、今度は習志野が優勝旗を再び千葉県に持ち帰る。ただし、今度は千葉市よりも手前の東京郊外の学校だった。スタンドの雰囲気も、大漁旗が打ち振られ、いかにも無骨な漁師街からやってきたという印象だった銚子商に対して習志野の場合は洗練されたイメージで、都会的なイメージが強かった。このあたりは、同じ千葉県から出てきた同士であってもタイプは全く違っていた。
こうした地域によってのチームの匂いの違いが、実は千葉県の高校野球の特徴といってもいいものだ。ただ、交通の発達とドーナツ化現象による人口の増加、さらには幕張新都心の開発などによって、千葉市手前の地域の都会感覚の人口が圧倒的に多くなってきて、そのことがチームを均等化していったのも顕著だった。
実は、習志野はその8年前にも全国制覇を果たしている。この時のエースの石井 好博投手はけん制球の名人だった。これで一気に全国区になった習志野だったが、逞しさよりもしたたかさが、上手さよりも華麗さが光った。そして、その石井投手が監督になって再び優勝を果たしたのが76年である。この時代はまさに千葉県が関東の高校野球をリードしていた時代なのである。
現在の千葉の勢力構図
早川 隆久(木更津総合)
都会的に洗練されているが神奈川県のチームよりも土の匂いの残る雰囲気は特徴的だった。そのリーダー格が銚子商と習志野だったが、市内の名門・千葉商も食い下がっていた。銚子商のもう一つのライバルといわれた成東も語らなくてはなるまい。ファンの間で伝説化されるくらいの試合があった。ことに、1972(昭和47)年の千葉大会準決勝での成東・鈴木 孝政と銚子商・根本 隆の投げ合いは壮絶な投手戦で、[stadium]千葉県営天台球場[/stadium]で成東の試合などを見ていると、未だにその試合の話をするオヤジに遭遇することもある。それは、それだけ成東の人気も高いということの裏付けでもある。
千葉県の高校野球は、こうして銚子商と習志野がリードし、それに千葉商や成東が食い下がった。やがて木更津中央(現木更津総合)が抵抗を見せた時代から、1978(昭和53)年に印旛が初出場する頃から、俄かに群雄割拠の時代になってきた。そして、これ以降、千葉県では初出場ラッシュとなっていく。我孫子、八千代松陰、市立銚子、銚子西、千葉商大附、東海大浦安などが相次いだが、拓大紅陵が現れて落ち着いた。
80年代は拓大紅陵を中心として動いていくことになるのだが、92年に4人の投手を巧みに駆使して継投と分業制を確立。これで準優勝を果たしてピークを作る。その後にはまた、市立船橋も台頭し、拓大紅陵と系列の志學館や99年には突発的に柏陵なども躍進。再び群雄割拠となり、その後、どこが突出するということなの各校にチャンスがある時代が長く続いていた。そんな中で、2000年には東海大浦安が全国準優勝を果たすなどと言うこともあった。
この頃から、甲子園未出場校でも好投手が多く輩出され、さらに力は拮抗していた。敬愛学園、横芝敬愛、千葉敬愛、中央学院、東海大望洋、千葉英和、西武台千葉、東京学館勢にラグビーの強豪として知られている流通経済大柏などだ。
そして、そこに敢然と現れたのが松本 吉啓監督を招聘して急速に戦力充実してきた千葉経済大附であろう。04年夏に初出場を果たすと、そのままベスト4に進出。一気に強豪の仲間入りを果たした。
一時は、千葉経済大附が県内を制したかという印象もあったくらいだったが、その頃から成田も復活。そこへ、木更津中央から校名変更した木更津総合が力をつけ始め、東海大グループの中で甲子園出場を果たしていなかった望洋も強化され、実力校となっていく。また、専大松戸も茨城県の竜ヶ崎一や藤代で実績をあげていた持丸 修一監督を招聘。木更津総合は03年に復活出場を果たすと、08年にも出場。12、13年夏と16年春夏は連続出場を果たすなど安定してきている。
東海大望洋は2010年春に悲願の初出場を果たすと、14年夏も出場。そして、16年度からは地名が入った新校名東海大市原望洋となったが、その年の秋季県大会を制して関東大会も準優勝で、17年春の出場も決めた。専大松戸は15年夏に何度も跳ね返されていた決勝の壁を突破してついに初出場を果たした。
こうして、現在は県内3強が形成されたのだが、盤石な存在ではない。09年夏にノーマークの八千代東がするすると勝ち上がったという例もあるように、無名校にもまだまだ希望の光があるのが千葉県だ。前述校以外でも千葉英和や千葉明徳、千葉黎明、日体大柏なども機を窺っている。
(文:手束 仁)
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