全国区の常総学院が中心で霞ヶ浦が対抗、後を公私各校が一団となって追う(茨城)
明らかに茨城県の高校野球史を変えたのが常総学院だ。というより、木内 幸男前監督であろう。その木内監督は、2003年には早くからこの年で勇退を宣言しながら常総学院は、ついに全国で最後まで残ってしまった。
茨城県の歴史を変えた常総学院
常総学院ナイン(2016年春季関東大会より)
全国制覇は01年春に次いで常総学院としては2回目、木内監督自身としては3回目のものである。監督としてもここまで甲子園出場は春7度、夏13度、決勝進出は春夏通算して5度あり、通算40勝という数字は光る。
01年の春のときは、「今回は、初めて勝てる可能性のある決勝戦でしたから…、もう必死でした」などと言い、03年夏には、「バントのしすぎですかね。だけど、打てない子たちに一つでも多く勝たせてやりたいと思ってっと、バントのサイン出してしまうんですね」など、どこまで本気でどこまでとぼけているのか、そんなマスコミとのやり取りも話題となっていた。
それらを含めて、「木内マジック」とも呼ばれていたが、それに対しても本人は、「マジックでもなんでもないんです。練習をしっかり見て、選手の調子や性格をみて起用してっから…。皆さんには突飛な作戦に見えるかもしれませんけど、私はバントも、できるヤツにしかやらせてませんから」という答えでかわす。
こういうことを甲子園のインタビューでも平気で答える。しかも、意識的と思えるくらいに茨城弁を直そうとせず、インタビューも質問以上のことを喋るリップサービスも面白い。勝利監督インタビューを聞きたいがために常総学院を応援しているという人も少なくなかった。
その木内監督が、宣言どおり03年夏をもってユニホームを脱いで現場を去った。
かと思いきや、07年夏以降に再度就任。佐々木 力監督につなぐ10年までもう一度監督を務めて、08年夏、09年夏と甲子園に進めているのだから恐れ入る。
木内監督自身としては、取手二で1984(昭和59)年の夏に、桑田 真澄 (関連記事)・清原 和博(ともに当時2年)がいたPL学園を倒して初めての全国優勝を飾る。この優勝の後、請われて常総学院に移ることになる。そして常総学院で結果を出し続け、確実に茨城の高校野球のレベルを上げたということは間違いない。
佐々木 力監督になってからも、常総学院は甲子園の常連校であり続けている。12年夏から3季連続出場して、15年春、16年は春夏ともに出場を果たすなど、県内で最も安定して甲子園に出場しているチームであることは間違いない。
今や、常総学院が登場すれば間違いなく上位候補として注目される。常総学院の存在は明らかに茨城県の歴史を変えたといってもいいだろう。
常総学院の登場までは、茨城県内では竜ヶ崎一と水戸商の両校が大きな流れを作っていた。竜ヶ崎一は県南地区では土浦一に続く進学校でもあるが、野球部は「竜一ファン」という人に支えられ、練習試合でも多くの人がネット裏に詰め掛けてくる。ところで、竜ヶ崎一の校歌は、旋律は旧制一高の寮歌『アムール河の流血や』と同じで、かつて日清日露戦争で日本陸軍が歌っていた『歩兵の歌』こと『万朶の桜』とも同じである。これも、オールドファンから人気のあるもう一つの要素といってもいいであろうか。このところ、やや低迷感があるのはいささか寂しい。
旧制中学系の甲子園ということでいえば、竜ヶ崎一が圧倒的に多いが、高校野球の父といわれている飛田 穂洲の母校・旧制水戸中学、現在の水戸一を忘れてはいけないであろう。早稲田大の監督として大学野球に貢献した石井 連蔵もOBである。この水戸一のライバル校が土浦一ということになる。
一方の雄としての水戸商は豊田 泰光、大久保 博元、最近では井川 慶(阪神)がいる。地元では「水商(スイショウ)」と呼ばれて親しまれている。地元のブルーカラーの人気校といっていいだろう。ユニホームは明治大学によく似た襟のついたもので、胸文字も「M」が大きく書かれた筆記体で、これも明治っぽい。そのせいかどうか、大学は明治へ進む選手が目立つ。内野の守りのよさは毎年定評があり、玄人受けする野球で県内の人気では一番だろう。
水城
99年春のセンバツでは準優勝を果たして、茨城県は常総学院だけではないことを示した。その水戸商を率いた橋本 實監督が定年後、水城へ異動し、水城が強化され10年夏と11年春に甲子園出場を果たしている。
さらには、現専大松戸の持丸 修一監督が率いた藤代なども01年、03年と春の甲子園にも出場し、野口 祥順(ヤクルト)、鈴木 健之(横浜)と立て続けにプロ入り選手も送り出している。引き継いだ菊地 一郎監督が14年夏にも甲子園出場している。
県で最初の全国優勝を果たした取手二の現在はどうかというと、部の存続さえ危ぶまれる部員不足という現実もあったが、OBたちの尽力もあって徐々に復活の兆しで、関東大会にも復活を果たしている。
ところで、茨城はこの取手に限らず、一高、二高とつくところが多い。原則的には、一高は旧制中学の流れを汲む元男子校で二高は女子校というのが多い。だから、一高と名乗るところは、いずれも地域では進学校として地元の人気も高い。下妻一、太田一、水海道一なども伝統校である。
また、竜ヶ崎一、日立一など野球が実績を挙げている名門も多い。日立一は15年夏には茨城大会決勝進出で注目された。また、16年春には石岡一が準優勝を果たして、関東大会に進出。茨城県の公立校健在ぶりを示して気を吐いた。
これに対して、常総学院に続く私立校勢力としては、15年夏に悲願達成した霞ヶ浦をはじめ、青森県で光星学院(現八戸学院光星)を何度も甲子園に導き実力校に育て上げた金沢 成奉監督が就任してめきめきめきと実績を挙げている明秀学園日立が追随している。さらには、東洋大姫路で実績のある堀口 雅司監督が就任した東洋大牛久、東都大学野球連盟の日大監督で優勝経験もある鈴木 博識監督を招聘した鹿島学園など、それぞれが指導体制強化からチーム作りを始め虎視眈々と常総学院や霞ヶ浦のスキを狙ってきている。
また、土浦日大も下妻二で実績を挙げた小菅 勲監督を招き、復活を目指す。こうして、常総学院と霞ヶ浦に続く第二集団は混戦と化している。
(文:手束 仁)