内川聖一「とにかく野球が好きだった少年時代 そして病気を乗り越えて」【前編】
今年、2年ぶりの日本一に輝いた福岡ソフトバンクホークス。そのチームをキャプテンとしてまとめたのが、内川 聖一選手だ。2000年秋、大分工の3年生だった内川は高校通算43本塁打を放つ大型ショートとして注目され、横浜ベイスターズからドラフト1位指名を受けプロ入り。NPB17年間で、通算打率.310、通算安打1975と大打者の仲間入りを果たした。今回は内川の高校時代を知るべく、内川の父である一寛さんにお話を伺った。
とにかく野球が好きだった小学校時代
内川一寛さん
私は聖一が生まれた時、国東高校(くにさき)で監督を務めていました。私も、家内(和美さん)も国東は初めてで、友達がおりません。そのため家内は毎日放課後、子供たちをグラウンドに連れて遊びにきていましたね。
私は高校を卒業した後、法政大、実業団でプレーしていたので、プロ入りした先輩や後輩が結構おりまして。大分でオープン戦があるとき、一緒に食事に行くときも聖一も連れて行きましたので、自然と野球というものに染まっていた環境だったと思います。
聖一は、その時から近所の少年野球チームの練習を見ていたんですよ。その少年野球チームの入部規定は小学校3年生から入団が認められているのですが、当時の監督さんが毎日練習を見に行く聖一の姿を見て、わざわざ規定を変えて、「そんなに好きならば、ほかの競技に取られる前に入れよう」という話になりまして、小学校2年生から入団を認めてくれたんです。やはり聖一はその監督さんの言うことはしっかりと聞いていたようですね。家内が聖一に対して、話していたのは、勝つこととかではなく、「聖一、友達ととにかく楽しくやりなさいよ」と。また聖一は野球以外の友達とも仲良く遊んでいました。今では、仲間の活躍に大喜びしている姿を見せるじゃないですか。ああいうところは、小さいときに身についたものだと思っています。
そして中学3年生で、受験の時期になりました。私はその時、野球部がない四日市(現・宇佐)に勤務していたんですけど、ちょうど、聖一の進学時期が私の転勤とかぶったんです。聖一は私と一緒にやりたいと言ってきました。そのため大分工に転勤を希望していましたが、もう1つ候補がありました。本当にギリギリとなり、大分工の進学が決まり、初めて親子一緒に活動することになりました。
私はずっと高校野球の監督をしていたので、聖一のプレーはまだ全然見ていません。あの子のプレーを見るのは、高校生になってからです。
病気を経験したことはあいつを人間的に大きくさせた
内川聖一選手
大分工に就任したとき、私は部長でした。監督に言っていたのは「聖一は使わなくていい。3年生優先」と言っていたんですけど、3年生の親御さんが聖一を使ってほしいと監督に要望がありまして、1年生から使うことになりました。1年夏からショートのレギュラーを獲得して、最初の夏は2本ぐらい安打を打ったと思います。このまま順調にいけばと思っていたんですが、夏休みの終わりぐらいに聖一が踵が痛いと言いまして、病院に行きましたら、骨が解ける骨嚢腫になってしまったんです。手術で、人骨を入れるのですが、これがダメで、最終的にはあいつの仙骨を砕いて入れるほどの大規模な手術だったんです。
12月いっぱいまでは入院生活でしたね。この時、手術した足は筋肉がだいぶ落ちていましたし、リハビリを重ねて完全復帰するまで1年と医者から言われていました。これを言われて、高校野球はほとんどプレーできず終わり厳しいなと感じましたね。
ただ聖一は入院経験が大きな経験になったといろいろなインタビューで明かしていますね。
あいつは、入院中は入院している人から可愛がってもらったそうです。昨日まで話していた人が、しばらく見ないと思ったら亡くなっていたという経験もあったそうで。そこであいつは人生何があるか分からない、やるべきことはしっかりやろうという気持ちになったようです。時間がかかるといわれていた聖一ですが、夏の大会では復帰し、7割ぐらいの力でプレーしていました。そして2年夏が終わって新チームになり、最上級生になって、キャプテンを誰にするか決めるときです。私は聖一以外の選手を指名しようと思いましたが、同級生から聖一にしてくれと。それだけ慕われていたんでしょうね。
2年の夏休みが終わる頃には全力で走れるようになっていましたよ。この時から、バッティングも凄みが出てきましたね。九州大会地区予選の前に小さな大会ではすべて敬遠。だから私はある試合で1番にしたんですよ。1番でしたら、敬遠するわけにはいきませんよね。敬遠しないのですが、それでも勝負を避けた四球と、打撃は存在感が出てきたと思います。
(取材・文=河嶋 宗一)