上林 誠知「上林には4番打者が一番合っていた」VOL.1
入団4年目の今季、福岡ソフトバンクホークスの熾烈な外野手争いを勝ち抜き、定位置をつかんだ上林 誠知。オールスターにはファン投票で選ばれ、規定打席にも到達。侍ジャパンの一員として、「ENEOS アジア プロ野球チャンピオンシップ」では全3試合に5番でスタメン出場した。宮城・仙台育英高時代から世代を代表する好打者として注目されながらも、苦労も多かった。その苦悩を間近で見てきた恩師・佐々木順一朗監督に上林について語っていただいた。
佐々木監督のオーラに惹かれ、仙台育英に入学
佐々木 順一朗監督(仙台育英)
上林は1995年8月1日、岩手県出身の父・光行さんと韓国出身の母・蓮草さんの次男として生まれた。運動能力の高い少年は埼玉県で育ち、小学1年から少年野球チームの西堀A-1で野球を始めた。小学4年の時、右打ちから左打ちに転向。さいたま市立土合中では浦和シニアでプレーし、3年春の全国大会で優勝した。関東の強豪校からの誘いもあったが、父・光行さんには東北地方の高校が甲子園でまだ優勝していないことから、その期待を込めて東北地方で高校野球をしてほしいとの思いがあった。そこで、祖母・喜栄子さんの出身地である宮城県の高校を見学。その1つが仙台育英だったのだが、上林は練習の雰囲気と佐々木監督のオーラに一目惚れ。その場で、光行さんに「ここがいい、ここがいい」と伝え、帰りに寄った牛タン店で仙台育英進学を決断した。
ただ、上林ら今年、大学4年生の世代の高校生活は波乱のスタートだった。
「上林の代は、入学前に東日本大震災が発生し、5月の連休明けに入学してきました。不安だったんじゃないかなと思います。あの状況で、ここに来るのか、と。校舎はプレハブでしたしね。その時の上林の印象は、同じ学年の中で1つ抜けているような雰囲気があるな、と。それはこっちの勝手な印象で、なんでもない子どもだったんだけど(笑)。あの見た目なので、雰囲気はいかにも世の中を知っているような、大人びた子どもだなと感じました」
未曾有の被害をもたらした東日本大震災の混乱の中で入学してきたのが上林の世代だった。仙台育英は仙台市中心部に近い宮城野校舎と、そこから10キロほど離れた多賀城市の多賀城校舎に分かれている。硬式野球部員が学び、硬式野球部のグラウンド「真勝園」がある多賀城校舎は仙台港の近くにあり、周辺は津波の被害を受けていた。
入学は5月になり、グラウンド横の駐車場に建てられたプレハブで高校生活が始まった。そして、宮城県と福島県では春の公式戦が中止となった(ほかの東北4県は県大会まで開催)。
「上林は中学時代に全国優勝もしていました。それが、高校に来たら校舎はプレハブで、学校生活もままならない。余震もあるし、大会も中止になった。もし、別の高校に行っていたら、最初から試合に出ているんじゃないかと、なんだか悪いな、思いましたね。上林は相手に、そういう風に勝手に思わせる雰囲気を持っています。プロに行っても、ただ練習をやっているだけなのに、いろんなことを思いながらやっているんだとか、いろんな経験を経て地の底に湧き上がるものを持ってやっているんだとか、本人が思っている以上に周りがそう思ってくれるようなものを持っている子ですね。その辺は僕に似ているかな(笑)。僕は、そんなに何も思っていないのに、周りが勝手にいろいろ考えているんじゃないかと思われるタイプ。上林にもその気があるかなと。周りに遠慮させるとか、周りに気を使わせるとか。周りが勝手にそう思う、そういう子どもでしたよね」
生粋の4番打者タイプ
試合前のベンチで佐々木監督から声をかけられる上林
ただ、“お山の大将”ではないし、リーダータイプでもない。プレーで結果は出しても、発言や姿勢でグイグイと引っ張る感じはなかったが、「でも、それでいいんだと思わせる、得なタイプですね。周りがどんどん、上林を上げていく」と佐々木監督。それでいて、上林の性格がそうさせるのだろうが、周囲が「なんだ、あいつ」と面白くない感じにもならなかった。
「それは上林の最大の特徴だなと思います」
仙台育英では入学後、1年生だけで練習をする。それを佐々木監督が見て実力を判断する。
「ウチは体験練習会とかがないため、入学式後に初めて、プレーしているところを見ます。ハーフバッティングで初めて上林のスイングを見ましたが、これはすごいやつが来たなと思いました。タイプは全然、違うけど、上林の2年後に入ってくる平沢(大河、ロッテ)もそう感じました。上林は大人でしたね、バッティングが。ちゃんと見て捉えて、打った方向にバットをグイッと持っていく。それが力強く、ブレない。もう出来ているなという感じのものがあったなぁ。平沢は振りが生半可じゃないくらいすごかった。ただ、ブンブン丸なのでタイプは明らかに違う。橋本(到、巨人)はうまい!運動能力があるなという感じ。ピッチャーもしてほしいなと思うのが橋本で、上林にはピッチャーをやってほしいとは思わなかった(笑)」
上林は1年夏からベンチ入りし、その秋からは4番を打った。打順をいじった時期もあったが、「4番・上林」が最もしっくりきたという。
「当たり前のように1年秋から4番になりました。それまでは遠征に連れて行っても、代打での登場。そんなに結果が出ているわけではなかったけど、代打で出すと、落ち着いて見逃して、落ち着いてミートだけしている。それが結果には結びつかなかったけど、落ち着いた雰囲気があるなぁと感じましたね。上林が4番だというのは、周りも納得できる。周りが納得できる選手じゃないと、僕は下級生を使わないので。いい気になることもない子でしたし。上林が1年から2年にかけて、打順をどうしようかと考えたことがありました。1番にもしましたが、合わない。1番、3番、4番とやってみましたが、やっぱり、4番の方が合っているなと確信したのが2年春です。そこからはずっと4番。橋本も最後は1番に戻りましたが、3番だったり、4番だったりした。結局、チームが回らなくなって、橋本を1番に置いたら、みんな、生き生きし始めた。その逆バージョンですね。だから、上林は4番タイプなんでしょうね」
(取材・文=高橋 昌江)
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