山﨑 康晃選手(帝京-横浜DeNAベイスターズ)「プロ入りした選手でこれほど極端に変わったのは山﨑が初めて」
昨年、新人ながら37セーブを上げ、新人王を獲得した山﨑 康晃。150キロを超える速球、フォークのように曲りが大きいツーシームのコンビネーションで次々とセ・リーグの強打者をねじ伏せ、横浜DeNAベイスターズに欠かせない投手へ成長。そして愛嬌溢れる笑顔と爽やかなファン対応で、大人気となっている。
そんな山﨑の高校時代は2009年夏と2010年春に甲子園出場。バランスが取れたオーバーハンドから140キロ台の速球を投げ込む右の本格派としてドラフト候補に挙がる存在だった。能力以外の一面を知るべく帝京の前田 三夫監督に伺ってみた。
退部危機を止めた母・ベリアさんの存在
山﨑 康晃(帝京時代)
「山﨑ですが、入学当初は本当に体が華奢な子でした。でも身体能力は素晴らしく、肩、足が抜群に良かった。最初はそれを生かそうと投手兼外野手としても考えていたんです。でも、打撃がダメで、また体も細いので、打球も前へ飛ばない。ですので打者としては諦めて投手1本に。ただ投手としてもストレートの球筋は良かったのですが、球質が軽いので、打球が飛ばされていましたね。
これを見て、1年生の間はしっかりと体を作らないといけないと思いました。トレーニングもそうですが、ご飯をたくさん食べろよと彼に伝えていましたね。よく彼の家に電話をして、しっかり食べているかと聞いたこともあります。
ただ、その華奢な身体以上に手がかかったのは精神面です。今では好青年の山﨑ですが、入学当時はやんちゃ坊主で、とにかく勉強が嫌い。当然ながら成績が悪い。そして成績が悪いから、課題も出ますがその課題も消化できない。それで頭がパンクして、本人が辞めると言い出したんです」
しかしこの時、辞めようとする山﨑を止めたのが、フィリピン出身の母、ベリアさんだった。
「お母さんが大したもので、その日に、山﨑を連れ出してグラウンドへ帰ってきたんです。1年の4月半ばぐらいのことですよ。そこで甘いことは言っていられないと思ったのか、辞めずにやってきました」
今ではウイニングボールをベリアさんに渡すなど、親孝行な一面が見える山﨑だが、そのベリアさんの引き留めがなければ、今の山﨑はなかった。そしてトレーニング、食べることを繰り返した山﨑の体はだんだん大きくなり、ストレートの質も変わり、140キロ台に到達した。頭角を現したのは2年の夏からで、東東京大会では先発・中継ぎと活躍を見せ、2年ぶりの甲子園出場に貢献。準々決勝の県立岐阜商戦で甲子園デビューを果たした。山﨑は3回無失点の好投を見せ、さらなる活躍が期待されたが、中継ぎ投手という立ち位置は変わりなかった。
「あいつは持続力がないところがあって、先発をさせることはあったのですが、最初は良くても、途中で打たれてしまうことがよくありました。逆にリリーフで出したら、良いんですよね。この時から中継ぎ・抑えが適任だったかもしれませんね。気持ちに波があってよく僕に怒られていたと思います。でも3年春の選抜が終わってだいぶ気持ちが変わってきましたね。
エースになりたい気持ちが強く出てきて、練習に取り組む姿勢も変わってきましたし、マウンド上でもだいぶ気持ちがこもった投球ができるようになりました。この時、不調な投手が多かったので、この夏は山﨑に背番号1を付けさせて山﨑に懸けてみようかということになりました」
山﨑を大きく変えた亜細亜大進学
山﨑 康晃(帝京時代)
2010年夏、背番号1を付けて臨んだ山﨑は初戦の攻玉社戦で6回無失点の投球を見せるなど快調なスタートを切った。しかし5回戦の国士舘戦で打ち込まれ、コールド負けを喫し、山﨑の高校野球人生は終わった。高校野球が終わり、山﨑はプロ志望届を提出。当時からプロ志向が強かった山﨑だが、前田監督は厳しい見方をしていた。
「当時から145キロを投げていましたが、技術的にも精神的にも、まだ完成していませんでした。甲子園に行って活躍をしていればまた違ったかもしれませんが、予選でコールド負けした投手では厳しいというのは本人に伝えていました。そして、やはり指名はなかったんです。プロ以外ならば、彼は母子家庭だったので、社会人野球へ行かせることを考えていました。実際に強豪の社会人野球部からも声がかかっていましたからね。でも山﨑は大学に行きたがっていました」
その山﨑を高く買っていたのが亜細亜大だった。亜細亜大はドラフト前から、山﨑がプロに行けなかった場合でも面倒を見るよと話していたようだ。
「本当に山﨑を高く買っていてね。良い条件を出していただいて、入学しませんかと話をいただいていたんです。そして彼の2学年上には、東浜 巨(沖縄尚学出身・関連コラム)という素晴らしい投手がいた。その東浜投手と同部屋で住ませますのでと言われて。これは亜細亜大にお世話になるしかないかなと思いました」
こうして亜細亜大に入学した山﨑だが、この選択は大正解だったと言える。先輩の東浜を追うようにメキメキと成長していった山﨑は1年秋(2011年)から明治神宮大会出場。そして3年春(2013年)は大学選手権、明治神宮大会(2013年)では先発または中継ぎで活躍し、大学選手権は準優勝、明治神宮大会では優勝を経験。そして大学4年にはドラフト1位候補として注目される存在となった。
プロでは最高の仕事場をもらった
投球フォームを指導する前田 三夫監督(帝京)
投手として心身ともに成長する山﨑の姿を見て、前田監督は亜細亜大に対して感謝の言葉を述べていたが、最も驚きだったのが教員免許を取ったことだという。
「いや~あの勉強が苦手な山﨑が教職を取ったことは本当に驚きでしたね。人間的にも大きく成長しましたし、亜細亜大で本当に叩き込まれたと思います。本当に生田 勉監督を始め、指導者の皆様には感謝です」
そして横浜DeNAベイスターズ、阪神タイガースの2球団の競合の末、横浜DeNAに入団した山﨑。入団当初は先発として期待されていたが、先発では結果を残すことができず、開幕直前にクローザーに配置転換。これがうまくはまり、前半戦首位の原動力となった。活躍する山﨑の姿を見て、前田監督は良い仕事場をもらったと感じている。
「山﨑が高校時代からリリーフ向きなのは実感していましたから。亜細亜大の時は先発で活躍していて、本当に驚きでした。プロでも最初は先発。しかしレベルの高いプロでは先発は厳しかった。でも中畑 清元監督からクローザーを任されて、1年目なのに、自分にあった良い仕事場をもらいましたね」
山﨑は37セーブを上げ、新人王を獲得した。ここまでの活躍について前田監督はどう思っているのだろうか。
「改めて思うのは、彼は人に恵まれているということですね。お母様がしっかりしている。母子家庭で家族を引っ張るお母様の後ろ姿を見て、本人も頑張ったと思いますし、亜細亜大では多くの人に恵まれ、そしてプロでは中畑監督に素晴らしい仕事場を与えてもらった。2年目もクローザーを任されると思いますが、精神的な強さが問われるポジションですから、今の気持ちを忘れずにやってほしいですね」
前田監督は長い監督生活で多くのプロ野球選手を輩出しているが、ここまで変わった選手は初めてだという。
「プロ入りした選手でここまで手がかかって、極端に変わってプロ入りした選手は初めてですね。本当に頑張ってほしいと思います」
2年目はまさに勝負のシーズン。今年もベイスターズファンを熱狂させる快投を見せてほしい。
(取材・構成=河嶋 宗一)