【三年生座談会】県立相模原高等学校(神奈川)
左から新井君、今井君、塚原君、伴内君、関君(県立相模原高校)
この夏、最激戦区と言われている神奈川大会で、県立進学校ながら、私立強豪校を下して、堂々のベスト8入りを果たした県立相模原高校。3年生は、わずかに5人。多くの素質ある2年生が下から突き上げてきたなかで、全員レギュラーとして試合に出場。「陽転思考」をチームの相言葉として、苦しい試合もものにしてきた。
そんな県相の3年生たちに集まってもらい、この夏の戦いと自分たちの高校野球を振り返ってもらった。
座談会メンバーを紹介!
新井 慎也君(投手)、今井 啓太君(主将・捕手)、塚原 康平君(二塁手)、伴内 光太郎君(左翼手)、関 優太君(中堅手)
神奈川大会ベスト8 この夏を振り返って
主将としての1年を振り返る今井啓太君(県立相模原高校)
――この夏は、結局、準々決勝で横浜高校に負けてしまうのですが、県内公立校としては一番最後まで残ったベスト8でした。夏の大会を振り返ってと言う前に、最後の横浜との試合というのは、どうでしたか。
関 いつものように出来なかったというか、自分たちの野球を全然させてもらえなかった、そんな感じでした。
塚原 最初から、ドタバタしてしまっていて、最後までそんな感じでした。
新井 横浜とは春も対戦していますが、春とは全然迫力が違いました。
今井 (その試合では)何も、いいところなかったですからね。
――終わった時の気持ちはどうでしたか。
新井 あ、夏が終わったなって、そんな感じでした。それと、もうこれで皆と一緒に野球ができないな、という感じでした。
――でも、県内の公立校としては、一番遅くまで勝ち残っていたのですから。
伴内 応援は、一番多く来てくれましたよね。
塚原 大会始まるまでは、野球部は全然モテなかったんですけど…。勝ち進んでからは、人気になりましたねぇ。
関 「県相でよかった」って言われて、ちょっと嬉しかったですね。
新井 横浜戦は、本当、いっぱい応援にも来てくれました。
[page_break:苦しんだ初戦は延長の末、勝利]苦しんだ4回戦は延長の末、勝利
投手として活躍した新井慎也(県立相模原高校)
関 その前に、三浦学苑とやって、これが延長11回になってしまって、苦戦したというか、チャンスに打てなかったというよりも、そもそもチャンスを作れなかったです。その試合では、そんな内容で焦りみたいなのがありました。
今井 最後は、相手のミスみたいな感じもあって勝てました。
――そういう時に、チームの合言葉でもある「陽転思考」というのがうまく機能したということですか。
新井 「陽転」というのは、例えば自分は投手なんですが、四球を出したりした時に、この言葉を出して、それで切り替えるというようにしました。
今井 攻撃の時にも、チャンスになって硬くなっちゃう打者がいますが、そういう時には「陽転しよう」と言って、追い込まれても、「美味しいところなんだから楽しめよ」というようにします。2ストライクに追い込まれたとしても、「ここで陽転」という気持ちになって普段通り出来るようになりました。
塚原 確かに、追い込まれて焦るところはありますが、そこで「陽転」という言葉で、それで、もう一回、自分が気づけるというところはありました。
[page_break:横浜創学館との一戦は…]横浜創学館との一戦は…
関優太君は外野手として活躍(県立相模原高校)
――夏の大会は、負けたら終わりというトーナメントになるわけですけれども、そこに対するプレッシャーというか、緊張感はありましたか。
伴内 初戦は硬かったかもしれないですが、一つ勝ってからは落ちつけたと思います。普段通りやれたと思います。
新井 夏の大会のマウンドは相手も必死でくるので、緊張しましたけど、相手もプレッシャーは同じなんだと思っていました。そう思えると、スタンドは入っていても、落ちつけたと思います。
今井 捕手としては、いつも通りにやれたと思いました。試合が始まってしまえば、集中して、スタンドの雰囲気とかは気になりませんでした。
関 横浜創学館に勝った時は、嬉しかったですね。最初の目標でしたから。
塚原 この試合は、取って取られてというシーソーゲームだったんですが、3年生がつないでつないでっていう形で、最後は新井が打って勝ち越して決めたんですけれど、集大成みたいな感じになれましたね。
――この試合で勝った時は、どうだったのですか、「次は横浜だぞ!」みたいな気持でしたか。
関 いやもう、勝った時はただ喜んでいましたね。
――それは、「陽転思考」の成果でもあったということかな。
全員 そうですね。
――3年生として、夏の大会が終わって1カ月くらいですけれども、後輩たちに伝えておきたいことというのは何がありますか。
関 高校野球は、一回負けたら終わりなんで、悔いのないように努力を積み重ねて欲しいと思います。
伴内 野球が出来ることに感謝の気持ちを持って欲しいですね。
塚原 自分は入学した時は、めちゃくちゃ下手で、本当に戦力にならないと言われたんですけれども、それが3年間頑張ったらレギュラー獲れたんで、今は力がない選手でも、努力してレギュラーを目指して欲しいと思います。
今井 終わって振り返ってみた時に、「オレはこれだけで来たんだ」と満足出来るような、そんな1日1日を全力で過ごして欲しいと思っています。
新井 この大会の結果に満足しないこと。そして、この秋も来年も、結果を過信しないで、もっともっと勝って上へ行って欲しいと思います。
[page_break:将来の夢は?]将来の夢は?
塚原康平君は二塁手として活躍(県立相模原高校)
――将来の夢というか、希望はありますか。
新井 自分は国公立の文系志望なんですが、これといった将来の夢はまだ明確には決まっていないんです。まずは大学へ頑張って入って、それからじっくり考えたいと思います。
今井 自分は将来は、中学か高校の教師となって、指導者という立場になれればいいなぁと思っています。
塚原 自分も、この野球の経験を生かして、子どもたちに教えていきたいなという気持ちがありますので、中学校の教員を目指します。
伴内 将来は…、フツーにサラリーマンじゃないですか(笑い)。もしもしたら、教師ということもあるかもわかりませんけど…。何っていうことはまだ、決まっていないんですけれども…。
関 看護系の仕事を目指して、人を助ける仕事をしたいと思っています。災害とか震災とか、いろいろと今の時代はあるので、そういう中で困っている人を助けられればと思っています。
――3年間、自分が県相野球部でやってこられたということで、自信になったとか、変わっていったということもありますか?
関 そうですね。「陽転」というイメージはありますね。そのおかげで結構、前向きに考えられるようになりました。逆境とかあっても、努力していけばいいという気持ちにはなれます。3年間やってこられたということで、自信にもなりました。自分でも、いい成長が出来たと思っています。成績も、好きな教科は、より一生懸命やれるようになったかなと思います。苦手な教科は、ちょっと…ですど(苦笑)。
伴内 野球の技術とかということよりも、挨拶とか、マナーとか、そういうところで成長出来たのではないかと思います。
塚原 粘り強さというか、最後まで諦めないでやり遂げるという姿勢が出来たと思います。それは、自分自身の成長だと思います。
今井 3年間やり遂げた(実際2年半なんですけれども)ということは、自分の自信にもなりました。それに、冬のトレーニングなんかでは辛い時に先生からも厳しい声を掛けられていくこともあったりと、そういう中で、心も成長出来たと思います。
新井 野球をやっていって、妥協したら負けということを学びましたから、まずは妥協しない心がつけられたと思います。それと、決心する力の大事さを学びました。
[page_break:高校野球を終えて]高校野球を終えて
左翼手として活躍した伴内光太郎君(県立相模原高校)
――実質、2年半ですけれども、自分たちが体験してみた高校野球というのはどうでしたか。
新井 丁度、佐相先生が異動してきたのとボクたちの入学が一緒だったんですけれども、その前までの県相の野球部のイメージとは、真逆みたいになって、結構、厳しかったと思います。
塚原 そうですね、ボクは自分の兄も県相野球部だったんですけれども、聞いていたのとは全然違いました。本気で勝ちに行く野球というか、正直、こんなに厳しいのかというところもありましたけど、やれてよかったです。
伴内 ボクは東林中出身なので、以前、佐相先生がいらっしゃったところなのですが、(佐相先生のことは)風の噂で聞いていました。だから、県相へ来られるというのを聞いて、「まじかよ…」とは、思いました(笑い)。
関 自分は、中学の時にやっていた野球と全然違って、戸惑いはありましたけれど、それでも、何とかやっていかれました。
今井 1年下の後輩たちは、中学時代に硬式のクラブチームでやっていたヤツもいますけど、ボクたちは皆、中学の野球部でした。
伴内 最初はちょっと、確かに戸惑いはありましたけれどもね。
塚原 ただ、毎日一生懸命にやっていけば、何とかなるのだということは学びました。
新井 今、野球やっていた時間を、勉強に費やそうと思っていますが、勝っていたということで、(受験勉強への)スタートが遅れたというのはあるかもしれないです。ただ、部活として不完全燃焼として終わるよりは、やり切ったという気持ちがありますから、しっかり切り替えられていると思います。
思い出話は尽きない(県立相模原高校)